祖父や父は、銃をもって祖国の独立を勝ち取り、祖国を銃で守り抜いたのは、正日だ-という物語が紡ぎ出され、約10万人を動員した「アリラン祭」でもこのストーリーをなぞったマスゲームが繰り返し披露される。
日成が母から2丁の拳銃を渡されたという逸話が事実なら、日成が中国・吉林の毓文(いくぶん)中学校にたつ前のことになる。
27年2月、日成少年は毓文中を目指した。同校は当時、中国でひそかにはやっていたマルクス主義思想の影響を強く受けていた。日成に国語(中国語)を教えた謝潘(本名・尚鉞)という教師も中国共産党員だった。謝は後年、「朝鮮革命博物館」に寄せた一文に、中学時代の日成についてこう記している。
「丸い顔に大きな目、口数は少なかった。彼は級友たちとわが家によく来ていた。15、16歳にすぎなかったが、心の奥深くに祖国を失った重い傷を秘めていたと私は感じ取った」
毓文中時代に日成は一大転機を迎える。(龍谷大教授 李相哲)
=敬称略