吉田源八
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吉田 源八(よしだ げんはち、1867年12月18日(慶應3年11月23日[1])- 1926年(大正15年)12月18日[1][2][3])は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]常陸国信太郡大形村(新治県信太郡大形村、茨城県[2]信太郡大形村、君原村、稲敷郡君原村[3]大形[1]を経て現阿見町大形[1])で、吉田倉之助の息子として生まれた[4]。英学、漢学、数学を修め、慶應義塾で学んだ[2][3]。
農業を営む[2]。山林を開鑿して桑園を造成し、蚕業の振興に尽力した[2][3]。国光石油取締役社長を務めた[2][3]。
政界では、稲敷郡会議員、同議長に在任[2][3]。1899年(明治32年)茨城県会議員に選出され1903年(明治36年)まで在任[1]。岡野寛の死去に伴い1900年(明治33年)3月に実施された第6回衆議院議員総選挙補欠選挙(茨城県第6区)で初当選[1][4][5][6]。以後、第8回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した[2][3]。
国政選挙歴
[編集]- 第6回衆議院議員総選挙補欠選挙(茨城県第6区、1900年3月)当選[5]
- 第7回衆議院議員総選挙(茨城県郡部、1902年8月、憲政本党)当選[7]
- 第8回衆議院議員総選挙(茨城県郡部、1903年3月、憲政本党)当選[1][7]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 服部鉄石『茨城人物評伝』服部鉄石、1902年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 衆議院事務局『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数調』1936年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 茨城県議会史編さん委員会編『茨城県議会史 第2巻』茨城県議会、1963年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。