三吉石塚古墳
三吉石塚古墳 | |
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墳丘(中央に後円部、右手前に前方部) | |
所属 | 馬見古墳群(中央群) |
所在地 | 奈良県北葛城郡広陵町三吉 |
位置 | 北緯34度33分1.50秒 東経135度44分7.15秒 / 北緯34.5504167度 東経135.7353194度座標: 北緯34度33分1.50秒 東経135度44分7.15秒 / 北緯34.5504167度 東経135.7353194度 |
形状 | 帆立貝形古墳 |
規模 |
墳丘長45m 高さ6.5m(後円部) |
埋葬施設 | 不明 |
出土品 | 埴輪 |
築造時期 | 5世紀後半 |
史跡 | 奈良県指定史跡「三吉石塚古墳」 |
地図 |
三吉石塚古墳(みつよしいしづかこふん)は、奈良県北葛城郡広陵町三吉にある古墳。形状は帆立貝形古墳。馬見古墳群(うち中央群)を構成する古墳の1つ。奈良県指定史跡に指定されている。
概要
[編集]奈良県西部、馬見丘陵中央部において新木山古墳(三吉陵墓参考地)の外堤西側に築造された古墳である。1987年度(昭和62年度)に発掘調査が実施されている。
墳形は、前方部が短小な帆立貝形の前方後円形で、前方部を東方向に向ける。墳丘のうち後円部は2段築成[1]。前方部の南東隅部には角状の張り出しを付す[2]。墳丘外表では葺石が検出されているほか、各段テラスにおいて円筒埴輪列(朝顔形埴輪含む)が、墳頂部において形象埴輪(蓋形・草摺形・短甲形・家形埴輪)が出土している[2]。また墳丘周囲には馬蹄形[1](または盾形[2])の周濠が巡らされる。埋葬施設は未調査のため明らかでなく[1]、副葬品も詳らかでない。
この三吉石塚古墳は、古墳時代中期の5世紀後半頃の築造と推定される[2][1]。馬見古墳群では、巣山古墳・乙女山古墳、新木山古墳・三吉石塚古墳、倉塚古墳・三吉古墳、築山古墳・コンピラ山古墳のように大型前方後円墳と帆立貝形古墳(または大型円墳)が近接するという特徴が認められており、ヒメヒコ制との関連性を指摘する説が挙げられている[3]。
古墳域は1992年(平成4年)に奈良県指定史跡に指定された[4]。現在では史跡整備のうえで公開されている。
遺跡歴
[編集]墳丘
[編集]墳丘の規模は次の通り[5]。
- 古墳総長:62メートル - 周濠を含めた全長。
- 墳丘長:45メートル
- 後円部 - 2段築成。
- 直径:41.4メートル
- 高さ:6.5メートル
- 前方部 - 1段築成。
- 長さ:7メートル
- 幅:22メートル
- 高さ:2.5メートル
墳丘の葺石には縦の列石が認められており、各列石間が作業単位とされる[1]。また葺石に使用される石材のうち、後円部の輝石安山岩は香芝市の二上山麓産で、前方部の黒雲母花崗岩は當麻町西方産になる[1]。
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後円部墳頂
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前方部から後円部を望む
葺石には作業単位が認められる。 -
後円部から前方部を望む
左後方は新木山古墳。
文化財
[編集]奈良県指定文化財
[編集]- 史跡
- 三吉石塚古墳 - 1992年(平成4年)3月6日指定[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 史跡説明板(広陵町教育委員会、1995年設置)
- 三吉石塚古墳パンフレット(広陵町教育委員会事務局文化財保存センター)
- 「三吉石塚古墳」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名 刊行後版(ジャパンナレッジ収録)』平凡社、2006年。ISBN 4582490301。
- 河上邦彦『大和葛城の大古墳群 馬見古墳群(シリーズ「遺跡を学ぶ」026)』新泉社、2006年。ISBN 978-4787706362。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 『昭和62年度 石塚古墳 -範囲確認調査概報-・新木山古墳外堤 -範囲確認調査概報-(広陵町埋蔵文化財調査概報)』広陵町教育委員会、1988年。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 観光 古墳 > 三吉石塚古墳 - 広陵町ホームページ