コンテンツにスキップ

エドモンド・ロッシュ (初代ファーモイ男爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
初代ファーモイ男爵の肖像写真。ジョン・ワトキンス英語版、チャールズ・ワトキンス兄弟撮影、1860年代。

初代ファーモイ男爵エドモンド・バーク・ロッシュ英語: Edmond Burke Roche, 1st Baron Fermoy1815年8月 – 1874年9月17日)はイギリスの政治家、アイルランド貴族自由党に所属し、庶民院議員(在任:1837年 – 1855年、1859年 – 1865年)を務めた[1]。叙爵の特許状が貴族院で無効とされ、再発行を要したことで知られる[1]

生涯

[編集]

エドワード・ロッシュ(Edward Roche、1855年3月没)と妻マーガレット・オノリア(Margaret Honoria、旧姓カーテン(Curtain)、ウィリアム・カーテンの娘)の息子として、1815年8月に生まれた[1]

1837年から1855年までコーク県選挙区英語版の代表として庶民院議員を務めた[1]。議会ではダニエル・オコンネルリピール協会英語版合同法廃止運動)に協力した[2]

1855年4月、チルターン・ハンドレッズ執事英語版に任命される形で庶民院議員英語版を辞任した[3]。1855年5月、アイルランド貴族であるコーク県におけるトラボルガンのファーモイ男爵に叙され[4]、特許状が発行されたが、特許状への異議が1855年7月24日に貴族院で取り上げられ、ファーモイ男爵はアイルランド貴族代表議員選挙への投票を拒否された[1]。1856年5月19日には特許状を無効とする判決が下された[1]1800年合同法に基づき、アイルランド貴族爵位の創設には既存のアイルランド貴族爵位3つの廃絶が必要であり、ファーモイ男爵の特許状ではティアコネル伯爵メルバーン子爵マウントラス伯爵の廃絶を創設の根拠とした[1]。しかし、マウントラス伯爵位が1802年に廃絶した後は従属爵位であるキャッスル・クート男爵位が存続した(1827年廃絶)ため[1]、貴族の人数が減っていないとして無効とされた。その後、1856年9月10日に新しく発行されたファーモイ男爵の特許状ではティアコネル伯爵、メルバーン子爵、オニール子爵(1855年2月12日廃絶)を根拠として挙げられた[1][5]

コーク県北部と東部に広大な領地を有し[2]、1856年12月4日にコーク統監に任命され、1874年に死去するまで務めた[6]。ノース・コーク民兵隊の名誉隊長を務め、同じく1874年に死去するまで務めた[7]。コーク県以外ではウォーターフォード県ダンガーヴァン英語版周辺に領地を有した[2]

1859年7月、自由党候補としてメリルボーン選挙区英語版から出馬、4,219票でトップ当選した[8]1865年イギリス総選挙で再選を目指したが、自由党候補3名が2議席を争った結果、4,121票(得票数3位)で落選した[8]

1874年9月17日、コーク県トラボルガン(Trabolgan)で死去、息子エドワード・フィッツエドモンド・バークが爵位を継承した[1]

家族

[編集]

1848年8月22日、エリザベス・キャロライン・ブースビー(Elizabeth Caroline Boothby、1823年ごろ – 1897年4月26日、ジェームズ・ブラウネル・ブースビーの娘)と結婚[1]、5男3女をもうけた[9]

  • エドワード・フィッツエドモンド・バーク(1850年5月23日 – 1920年9月1日) - 第2代ファーモイ男爵[1]
  • ジェームズ・ブースビー・バーク英語版(1852年7月28日 – 1920年11月3日) - 第3代ファーモイ男爵[1]
  • アレクシス・チャールズ・バーク(Alexis Charles Burke、1853年6月30日 – 1914年12月17日) - 1882年4月24日、ルーシー・モード・ゴッシェン(Lucy Maude Goschen、1909年3月16日没、初代ゴッシェン子爵ジョージ・ゴッシェンの娘)と結婚、子供あり[9]
  • イリナ・シャーロット・バーク(Eleanor Charlotte Burke、1854年9月15日[10] – 1938年4月16日) - 1881年6月21日、ウィリアム・ニコラス・リーダー(William Nicholas Leader)と結婚[9]
  • ユリック・ド・ループ・バーク(Ulick De Rupe Burke、1856年1月16日 – 1919年4月23日) - 1882年9月23日、アグネス・ブレア・メイン(Agnes Blair Mayne、1905年1月25日没、ジャスパー・オトウェイ・メインの娘)と結婚、子供なし。1906年2月15日、ドロシア・ブランシュ・ジョーンズ(Dorothea Blanche Jones、1963年4月7日没[11]、ジョン・ジョーンズの娘)と再婚、子供あり[9]。ドロシア・ブランシュは1931年12月5日にパーシー・ウィリアム・オールデイ(Percy William Allday、1937年4月7日没)と再婚[9]
  • イライザ・シャーロット・バーク(1857年10月17日[10] – 1940年11月8日) - 1905年1月24日、フリードリヒ・マクシミリアン・フォン・ホッホベルク(Friedrich Maximilian von Hochberg、1921年9月16日没、ハンス・ハインリヒ11世・フォン・ホッホベルクの息子)と結婚[9]。1925年9月28日、イギリス国籍に復帰した[9]
  • エドマンド・バーク(Edmund Burke、1859年9月29日 – 1948年6月21日) - 1912年、エリザベス・ブランシュ・クラパム(Elizabeth Blanche Clapham、1956年以降没、ジョン・グリーヴス・クラパムの娘)と結婚、子供なし[9]
  • エセル・キャスリーン・バーク(Ethel Kathleen Burke、1861年7月4日[10] – 1935年12月10日没) - 1891年8月20日、ノーマン・マクリーン(Norman McLean、1928年11月15日没、J・D・マクリーンの息子)と結婚[9]
  • 息子(1864年9月5日[10] – ?)

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1926). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat) (英語). Vol. 5 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 320–303.
  2. ^ a b c Dwyer, Ryle (30 June 2017). "Princess Diana's hidden Irish roots". The Irish Examiner (英語). 2021年11月26日閲覧
  3. ^ "No. 21701". The London Gazette (英語). 27 April 1855. p. 1617.
  4. ^ "No. 6494". The Edinburgh Gazette (英語). 22 May 1855. p. 593.
  5. ^ "No. 6633". The London Gazette (英語). 19 September 1856. p. 823.
  6. ^ Sainty, John Christopher (September 2005). "Lieutenants and Lords-Lieutenants (Ireland) 1831-". Institute of Historical Research (英語). 2018年7月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月26日閲覧
  7. ^ "No. 24154". The London Gazette (英語). 24 November 1874. p. 5607.
  8. ^ a b Craig, F. W. S. (1977). British Parliamentary Election Results 1832–1885 (英語). London: Macmillan Press. p. 15. ISBN 978-1-349-02349-3
  9. ^ a b c d e f g h i Pine, Leslie G., ed. (1956). Burke's Genealogical and Heraldic History of the Peerage, Baronetage and Knightage (英語) (101st ed.). London: Burke's Peerage Limited. p. 821.
  10. ^ a b c d Lodge, Edmund, ed. (1872). The Peerage of the British Empire as at Present Existing (英語) (41st ed.). London: Hurst and Blackett. p. 231.
  11. ^ "No. 42993". The London Gazette (英語). 14 May 1963. p. 4204.

外部リンク

[編集]
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
リチャード・ロングフィールド英語版
ギャレット・スタンディッシュ・バリー英語版
庶民院議員(コーク県選挙区英語版選出)
1837年 – 1855年
同職:ギャレット・スタンディッシュ・バリー英語版 1837年 – 1841年
ダニエル・オコンネル 1841年 – 1847年
モーリス・パワー英語版 1847年 – 1852年
ヴィンセント・スカリー英語版 1852年 – 1855年
次代
ヴィンセント・スカリー英語版
リッカード・ディージー英語版
先代
エドウィン・ジョン・ジェームズ英語版
サー・ベンジャミン・ホール準男爵英語版
庶民院議員(メリルボーン選挙区英語版選出)
1859年 – 1865年
同職:エドウィン・ジョン・ジェームズ英語版 1859年 – 1861年
ジョン・ハーヴィー・ルイス英語版 1861年 – 1865年
次代
ジョン・ハーヴィー・ルイス英語版
トマス・チェンバーズ英語版
名誉職
先代
第2代バンドン伯爵
コーク統監
1856年 – 1874年
次代
第3代バンドン伯爵
アイルランドの爵位
爵位創設 ファーモイ男爵
1856年 – 1874年
次代
エドワード・ロッシュ
pFad - Phonifier reborn

Pfad - The Proxy pFad of © 2024 Garber Painting. All rights reserved.

Note: This service is not intended for secure transactions such as banking, social media, email, or purchasing. Use at your own risk. We assume no liability whatsoever for broken pages.


Alternative Proxies:

Alternative Proxy

pFad Proxy

pFad v3 Proxy

pFad v4 Proxy