関田嘉七郎
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関田 嘉七郎(關田、せきた かしちろう、1867年10月6日(慶応3年9月9日[1])- 1943年(昭和18年)7月7日[2])は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、栃木県会議長、栃木県足利郡北郷村長。
経歴
[編集]下野国足利郡江川村(栃木県[2]足利郡北郷村[3]大字江川[4]を経て現足利市江川町[4])で、輸出織物業・関田政七郎の長男として生まれる[4]。1886年(明治19年)明治法律学校(現明治大学)に入学し1889年(明治22年)まで学んで帰郷した[2][3][4]。
家業の輸出織物業を継承。足利機業組合評議員、足利織物同業組合長、両毛織物同業組合連合会長、足利瓦斯社長、日本大博覧会評議員などを務めた[2][3][4]。
政界では、栃木県会議員、同参事会員、同議長、北郷村長、教育諮問会員、県立工業学校商議員、地方森林会議員などを務めた[2][3][4]。
木村半兵衛の辞職に伴い1909年(明治42年)7月に実施された第10回衆議院議員総選挙栃木県郡部補欠選挙で当選し[4][5]、立憲国民党に所属して衆議院議員に1期在任した[2][3]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院事務局『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数調』1936年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『栃木県歴史人物事典』下野新聞社、1995年。