猿島町
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さしままち 猿島町 | |||||
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廃止日 | 2005年3月22日 | ||||
廃止理由 |
新設合併 岩井市、猿島町 → 坂東市 | ||||
現在の自治体 | 坂東市 | ||||
廃止時点のデータ | |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 関東地方 | ||||
都道府県 | 茨城県 | ||||
郡 | 猿島郡 | ||||
市町村コード | 08544-8 | ||||
面積 | 32.46 km2 | ||||
総人口 |
15,084人 (推計人口、2005年3月1日) | ||||
隣接自治体 | 岩井市、結城郡 石下町・八千代町、猿島郡 三和町・境町 | ||||
町の木 | シロモクレン | ||||
猿島町役場 | |||||
所在地 |
〒306-0595 茨城県猿島郡猿島町山2730番地 | ||||
座標 | 北緯36度07分06秒 東経139度53分07秒 / 北緯36.11844度 東経139.88514度座標: 北緯36度07分06秒 東経139度53分07秒 / 北緯36.11844度 東経139.88514度 | ||||
ウィキプロジェクト |
2005年3月22日に岩井市と新設合併し、坂東市になり消滅した。
歴史
[編集]1956年(昭和31年)に沓掛村と富里村が合併して町政を施行。猿島茶の産地であるところから、新町名は猿島町とした。1957年(昭和32年)に石下町の一部を編入した。2005年(平成17年)、いわゆる「平成の大合併」により、隣接する岩井市との新設合併により坂東市となり、独立した町政はなくなった。
沿革
[編集]- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により猿島郡沓掛村、生子菅村・逆井山村が成立。
- 沓掛村 ← 沓掛村,内ノ山村
- 生子菅村 ← 生子村,菅谷村,生子新田
- 逆井山村 ← 逆井村,山村
- 1954年(昭和29年)3月20日 - 沓掛村が町制施行し沓掛町となる。
- 1955年(昭和30年)2月1日 - 生子菅村・逆井山村が合併し富里村となる。
- 1956年(昭和31年)4月1日 - 沓掛町・富里村が合併し、富里町(とみさとまち)が発足、即日改称して猿島町となる。
- 1957年(昭和32年)- 猿島町が結城郡石下町大字栗山新田の一部・左平太新田の一部・孫兵衛新田の一部を編入し、大字栗山新田・左平太新田・孫兵衛新田を設置。
- 2005年(平成17年)3月22日 - 岩井市と新設合併し、坂東市となる。同日猿島町廃止。
地理
[編集]町域は常陸台地を構成する台地のひとつである猿島台地にあり、標高20 m前後の平坦な土地が全体に広がる。北東端は、飯沼を干拓した水田地帯である。
主要産業は農業で、土地の大部分は、稲作が行われる水田や、麦・茶・タバコなどの畑作地として利用された[1]。特産の茶は、冬季の作物を季節風から守り、土壌浸食を防ぐために畑の境界に植えられたことが始まりで、19世紀中ごろの弘化年間に辺田村(現在の坂東市辺田)の庄屋であった中山元成が、地元農民に製茶を奨励したことから茶の栽培が地場産業となり、発展して猿島茶とよばれるようになった[1]。猿島郡南縁を流れる利根川に、芽吹大橋や境大橋が架橋されてからは、東京方面へ出荷するための近郊農業が行われるようになり、ビニールハウス栽培によるキュウリ・トマトなどの野菜の供給地となった[1]。
南東部に位置する沓掛を中心とした乏水台地には、工場用地・住宅地・商店街が集まる。
隣接していた自治体
[編集]名所・旧跡
[編集]- 逆井城跡公園
- 萬蔵院
- 沓掛香取神社
- 八坂神社
- 生子にある神社で、旧暦の6月15日と21〜22日に行われる祭りに神輿を供して歩くはやしである「猿島ばやし」は、1961年(昭和36年)に茨城県の無形民俗文化財に指定されている[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 高橋昭 著、茨城新聞社編 編『茨城県大百科事典』茨城新聞社、1981年、458-459頁。「猿島町」