宇野要三郎
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宇野 要三郎(うの ようざぶろう、1878年9月15日 - 1969年3月22日)は、日本の裁判官・弓道範士(10段)[1]。大審院部長。終戦後に全日本弓道連盟を組織し、その初代会長を務めた[2]。号は竹隠[2]。
来歴
[編集]青森県黒石市出身[3][4]。父は大地主で貴族院議員も務めた宇野清左衛門である[4]。
青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)から第二高等学校を経て、京都帝国大学に進む[4]。1904年、京都帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年判事に任官する[2]。初任は神戸地方裁判所[2][4]。横浜地方裁判所や東京地方裁判所の所長を務めた後、1934年に大審院部長となる(1941年に定年退官)[2]。
終戦後は1947年から第一東京弁護士会に登録する弁護士となり、1952年には公安審査委員会委員長も務めた(1956年退任)[4]。
弓道は1906年に日置流紀州竹林派の岡内木範士(おかうち こだち,元高松藩士)に入門、1932年に大日本武徳会範士となる[2]。大日本武徳会では常務理事や理事長を務めた[2]。大日本武徳会解散時、宇野は武徳会副会長という要職に就いており、武徳会がGHQにより強制解散させられた際に追放(パージ)される。(旧)全日本弓道連盟結成後しばらくして、「パージされた者が会長を務めている『(旧)全日本弓道連盟』は武徳会の延長である。」との趣旨の風説が司法界や文部省で囁かれ、国体から「弓道」が除外される懸念も出始め、宇野会長は辞任、(旧)全日本弓道連盟も解散させる形をとった[要出典]。
従三位勲二等を授けられた[2]。1960年に黒石市名誉市民に選ばれている[4]。
親族
[編集]- 父:宇野清左衛門(貴族院多額納税者議員)[5]
- 岳父:植村永孚 (海軍中将)[6]
- 長兄:宇野勇作(貴族院多額納税者議員)[5]
- 息子:宇野俊郎(国立西洋美術館事業部長):1968年3月10日逝去。享年57歳。[7]
脚注
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 東奥日報社 編『青森県人名事典』東奥日報社、2002年。ISBN 4885610656。