上田元俊
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代 |
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生誕 | 享禄2年(1529年) |
死没 | 慶長14年7月12日(1609年8月11日) |
別名 | 兵庫 |
戒名 | 法心[1] |
墓所 | 神奈川県川崎市中原区の泉沢寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 松平広忠→徳川家康 |
氏族 | 上田氏 |
父母 | 父:上田元次 母:石川清兼の娘 |
兄弟 | 元秀[注釈 1]、元成、元俊 |
妻 | 松平信孝の娘 |
子 | 直勝、教山善誉、元政、俊勝 ほか |
上田 元俊(うえだ もととし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・江戸幕府旗本。松平広忠・徳川家康に仕えた。通称は兵庫[1]。
生涯
[編集]享禄2年(1529年)[注釈 2]、松平清康の家臣・上田元次の子として生まれる。
天文17年(1548年)4月15日、松平広忠に背いていた松平信孝(三木松平家)は、岡崎城に向かって進撃した[2][1]。広忠勢[注釈 3]は伏兵を設けて信孝を待ち受けており[2]、明大寺村(現在の岡崎市明大寺町)の菅生河原(耳取縄手)で信孝を攻撃した[2][1](安城合戦・耳取縄手の戦い)。信孝は左の脇を射られ[2]、ついには元俊によって討ち取られた[2][1]。この時元俊は、生涯歩行が困難になる傷を負った[1]。この功績により、元俊は三河大浜に知行地を与えられ[1]、「金の三本傘の指物」(金三蓋傘形指物)を許された[1]。
のちに家康の命によって、信孝の次女[2]が元俊に嫁いだ[2][1]。元俊が小禄であったために[1]彼女には化粧料[注釈 4]が与えられた[2][1]。
元俊は三河国内で城の留守番・同番頭を務めた[1]。天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移されると、元俊は江戸城の留守番頭となった[1]。のちに武蔵国橘樹郡内で210石あまりを知行した[1]。家康からは「白地に朱日の丸の四半[注釈 5]」や茶壷・茶臼を拝領している[1]。
その後、老齢を理由として務めを辞し、知行地で隠棲した[1]。
慶長14年(1609年)7月12日没[1]、81歳[1]。武蔵国稲毛荘の泉沢寺(現在の神奈川県川崎市中原区上小田中)に葬られた[1]。
備考
[編集]- 家康が元俊に下賜した茶臼は現存しており[3]、1971年に上田家の末裔から徳川美術館(愛知県名古屋市)に寄贈された[3]。茶臼は茶道具としては珍重して保存されることが少ないため、伝世品は珍しいという[3]。
- 同様に徳川美術館には「金三蓋傘形指物」が寄贈されている[4]。「金三蓋傘形指物」は松平広忠から下賜されたものと伝承されている[5]。
系譜
[編集]特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[1]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 『寛政重修諸家譜』巻第二百十五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.87。
- ^ a b c d e f g h i j 『寛政重修諸家譜』巻第三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.17。
- ^ a b c “茶臼 徳川家康下賜・上田元俊拝領 上田家寄贈”. Image Archives-イメージアーカイブ. DNPアートコミュニケーションズ. 2021年12月5日閲覧。
- ^ “企画展示 天下統一-信長から家康へ-”. 徳川美術館 (2014年). 2021年12月5日閲覧。
- ^ “【22】金三蓋傘形指物 松平VS織田の旗指し物”. 「天下人の城」〜徳川美術館応援団〜. 2021年12月5日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百十五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.90。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第二百十五
- 『寛政重修諸家譜 第二輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082719/53
- 『新訂寛政重修諸家譜 第四』(続群書類従刊行会)