ジョージ・コヴェントリー (第8代コヴェントリー伯爵)
第8代コヴェントリー伯爵ジョージ・ウィリアム・コヴェントリー(英語: George William Coventry, 8th Earl of Coventry、1784年10月16日 – 1843年5月15日)は、イギリスの政治家、イングランド貴族。庶民院議員(在任:1816年 – 1826年)を務めた[1]。1809年から1831年までディアハースト子爵の儀礼称号を使用した[2]。
生涯
[編集]第7代コヴェントリー伯爵ジョージ・ウィリアム・コヴェントリーと2人目の妻ペギー・ピッチェス(Peggy Pitches、1759年ごろ – 1840年1月15日、サー・エイブラハム・ピッチェスの娘)の息子として、1784年10月16日に生まれた[1]。1801年よりウェストミンスター・スクールで教育を受けた後[3]、1802年2月4日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[4]。1803年10月1日、ウスター志願歩兵連隊(Worcester Voluntary Infantry)の司令官に任命された[5]。
1812年イギリス総選挙でウスター選挙区から出馬、現職議員で海外滞在中のウィリアム・ゴードンを余所者だとして攻撃したが、855票(得票数3位)しか得られずに敗れた[6]。1816年12月の補欠選挙では妥協の結果無投票で当選、1818年イギリス総選挙は選挙戦になったが、ディアハースト子爵以外の立候補者2人の戦いという性格が強く、ディアハースト子爵は1,422票でトップ当選した[6][3]。総選挙の後は選挙申し立てが行われたが、「取るに足らない濫訴」(frivolous and vexatious)として却下された[6]。1820年イギリス総選挙ではウスターの地方自治体からの支持を受けて、無投票で再選した[7]。
議会では会議への出席率が低く、投票においても独自路線をとった[2]。採決ではカトリック解放に反対(1817年5月、1821年2月、1822年4月、1825年3月)、刑法改革に支持(1821年5月、1821年6月、1822年6月)、スコットランド貴族代表議員選挙の制度改革に反対(1823年6月)したが、1817年2月にウスターからの選挙改革請願を提出した[3]。
1826年5月23日、ウスターシャー副統監の1人に任命された[8]。同年6月の総選挙でははじめ立候補を表明したが、投票の10日前になって突如副統監への任命と「ほかの事柄において私のおかれた状況」(the situation in which I am in other respects placed、『英国議会史』では選挙戦の費用を暗示した言葉だとしている)により立候補を取り下げた[2][7]。これにより、地方自治体とその支持者から「敵前逃亡」(desertion)と責められ[6]、1830年イギリス総選挙では妹からウスターで二度と当選できないだろうと評された[2]。『英国議会史』では風評の悪さを不出馬の理由の1つとして挙げた[2]。
1830年7月19日、国王ジョージ4世の葬式に出席した[9]。1831年3月26日に父が死去すると、コヴェントリー伯爵位を継承した[1]。同年9月8日、国王ウィリアム4世の戴冠式に出席した[10]。貴族院では第1回選挙法改正への態度で揺れ、1831年に反対票を投じたが、1832年に賛成票を投じた[1]。コヴェントリー伯爵から初代準男爵サー・デニス・ル・マーチャントへの手紙によれば、これは「不決断の有用さ」(usefulness of indecision)に気づいたためだとした[2]。ただし、1832年以降は概ね保守党を支持した[2]。
1838年、ウスターシャー民兵隊隊長に任命された[2]。
1843年5月15日にピカデリーのコヴェントリー・ハウス(Coventry House)で死去した[1]。長男ジョージ・ウィリアムに先立たれたため、孫ジョージ・ウィリアムが爵位を継承した[1]。
人物
[編集]ホランド男爵夫人エリザベス・ヴァサル=フォックスは1816年の手紙でディアハースト子爵が放蕩と道楽によりウスターで嫌われていると評した[2]。同時代のハリエッテ・ウィルソンはコヴェントリー伯爵を放蕩、けちで低俗な貴族(a profligate nobleman, stingy and unwashed)と評したが[3]、『完全貴族名鑑』ではウィルソン自身も放蕩さについてよく知っている(herself no mean judge of profligacy、「ウィルソン自身も放蕩だった」の意味)と評した[1]。
家族
[編集]1808年1月16日、エマ・スザンナ・リゴン(Emma Susanna Lygon、1810年8月8日没、初代ビーチャム伯爵ウィリアム・リゴンの娘)と結婚[1]、1男をもうけた[11]。
- ジョージ・ウィリアム(1808年10月25日 – 1838年11月5日) - 1836年3月15日、ハリエット・アン・コッケレル(Harriet Anne Cockerell、1809年ごろ – 1842年1月7日、初代準男爵サー・チャールズ・コッケレルの娘)と結婚、子供あり。第9代コヴェントリー伯爵ジョージ・ウィリアム・コヴェントリーの父[1]
1811年6月22日にスコットランドでメアリー・ボークラーク(Mary Beauclerk、1791年3月30日 – 1845年9月11日、第6代セント・オールバンズ公爵オーブリー・ボークラークの娘)と再婚した[1]。同年11月6日にはイングランドで再び結婚式を挙げた[1]。2人は2男1女をもうけたが、後に別居した[2]。
- メアリー・オーガスタ(1889年9月23日没) - 1833年5月9日、第4代ホランド男爵ヘンリー・フォックスと結婚[11]
- ヘンリー・アメリアス(Henry Amelius、1815年10月15日 – 1873年4月3日) - 陸軍士官。1837年8月2日、キャロライン・スターリング・ダンダス(Caroline Stirling Dundas、1862年1月1日没、ジェームズ・ダンダスの娘)と結婚、子供あり[11]
エリザベス・ウィリアムズ(Elizabeth Williams)との間で3人の子女ジョージ、ジェームズ、エリザベスをもうけた[2]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 474–475.
- ^ a b c d e f g h i j k Salmon, Philip; Spencer, Howard (2009). "COVENTRY, George William, Visct. Deerhurst (1784-1843).". In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年10月9日閲覧。
- ^ a b c d Williams, M. J.; Thorne, R. G. (1986). "COVENTRY, George William, Visct. Deerhurst (1784-1843).". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年10月9日閲覧。
- ^ Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (A to D) (英語). Vol. 1. Oxford: University of Oxford. p. 306.
- ^ "No. 15624". The London Gazette (英語). 27 September 1803. p. 1321.
- ^ a b c d Williams, M. J.; Thorne, R. G. (1986). "Worcester". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年10月9日閲覧。
- ^ a b Salmon, Philip (2009). "Worcester". In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年10月9日閲覧。
- ^ "No. 18251". The London Gazette (英語). 27 May 1826. p. 1253.
- ^ "No. 18707". The London Gazette (英語). 19 July 1830. p. 1496.
- ^ "No. 18848". The London Gazette (英語). 13 September 1831. p. 1861.
- ^ a b c Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth P., eds. (1915). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, the Privy Council, Knightage and Companionage (英語) (77th ed.). London: Harrison & Sons. p. 533.
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr George Coventry
- ジョージ・コヴェントリー - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- "ジョージ・コヴェントリーの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
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庶民院議員(ウスター選挙区選出) 1816年 – 1826年 同職:サー・ウィリアム・ダフ=ゴードン準男爵 1816年 – 1818年 トマス・ヘンリー・ヘースティングズ・デイヴィス |
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