カトリーヌ・アンリエット・ド・ブルボン
カトリーヌ・アンリエット・ド・ブルボン Catherine-Henriette de Bourbon | |
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「カトリーヌ・アンリエット、フランスの正統な王女、エルブフ公爵夫人、1659年、ジャン・フローヌによる銅版画 | |
出生 |
1596年11月11日 フランス王国、ルーアン[1] |
死去 |
1663年6月20日(66歳没) フランス王国、パリ、オテル・デルブフ |
配偶者 | エルブフ公シャルル2世 |
子女 |
シャルル アンリ フランソワ・ルイ フランソワ・マリー カトリーヌ マリー=マルグリット=イニャス |
家名 | ブルボン家 |
父親 | フランス王アンリ4世 |
母親 | ガブリエル・デストレ |
カトリーヌ・アンリエット・ド・ブルボン(Catherine-Henriette de Bourbon, 1596年11月11日 ルーアン[1] - 1663年6月20日 パリ)は、ブルボン朝時代初期フランスの王室メンバー。アンリ4世王とその側妾ガブリエル・デストレの間の娘。
生涯
[編集]生後7日目の1596年11月17日ルーアンのサン=トゥアン修道院で洗礼を受けた。式には英仏同盟の交渉に訪れていたイングランド女王エリザベス1世の特使も列席した。同日、父王の認知を受けて「フランスの準正された娘(Légitimée de France)」の身分を授かった。1598年に兄セザールに授与された公爵位に因み、「ヴァンドーム姫(Mademoiselle de Vendôme)」と呼ばれた。1599年の母に死に伴って兄弟と共に裕福な資産を相続した。
又従兄で第一血統親王のコンデ公アンリ2世との縁談が立ち消えになった後、1619年6月20日ルーヴル宮殿でエルブフ公シャルル2世と結婚[2]。ヴァンドーム公家が用意した花嫁持参金は終身年金を含めて130万リーヴルの巨額に上ったが、この金のほとんどが兄セザールとの民事訴訟[3]の費用を始めとする様々な用途に使われ、蕩尽されあるいは抵当入りした。
プランス・エトランジェだった夫の家格が自分より低かったこともあり、結婚後も王家の血筋を示す「フランスの準正された娘にして公爵夫人(Duchesse légitimée de France)」と名乗り、「C.H.L de France (Catherine-Henriette Légitimée de France)」と自署した。1663年パリのオテル・デルブフ(Hôtel d'Elboeuf)で死去した。
子女
[編集]夫との間に4男2女6人の子女をもうけた。
- シャルル(1620年 - 1692年) - エルブフ公
- アンリ(1622年 - 1648年) - オンブリエル修道院長
- フランソワ・ルイ(1623年 - 1694年) - アルクール伯
- フランソワ・マリー(1624年 - 1694年) - リルボンヌ公
- カトリーヌ(1626年 - 1645年) - ポルト・ロワイヤル修道院の修道女
- マリー=マルグリット=イニャス(1629年 - 1679年) - 「エルブフ姫(Mademoiselle d'Elboeuf)」
引用・脚注
[編集]- ^ a b Pitts 2009, p. 217.
- ^ Gerber 2012, p. 81.
- ^ Spangler 2009, p. 154.
参考文献
[編集]- Gerber, Matthew (2012). Bastards: Politics, Family, and Law in Early Modern France. Oxford University Press
- Pitts, Vincent J. (2009). Henri IV of France: His Reign and Age. The Johns Hopkins University Press
- Spangler, Jonathan (2009). The Society of Princes; the Lorraine-Guise and the conservation of power and wealth in the Seventeenth Century. Ashgate