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神仏習合|八幡神社 宇佐神宮

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神仏習合のはじまり 隼人の乱と放生会

奈良時代のわが国は、中国の唐(とう)にならって、律令国家の建設を進めていました。しかし、東北の蝦夷(えみし)と南九州の隼人(はやと)はその中に組み込まれることに強く抵抗しました。『八幡宇佐宮御託宣集』(以後『託宣集』という)には、8世紀のはじめころに起きた隼人の反乱を制圧するため、八幡神を神輿(みこし)に乗せ、宇佐の人々も参加されたことが記しています。

八幡宇佐宮御託宣集

その歴史は、宇佐神宮の重要な祭礼(さいれい)である「放生会(ほうじょうえ)」として今日に伝えられており、隼人との戦いで殺生の罪を悔(く)いた八幡神が、仏教に救いを求めたことに起因しています。これを契機に、宇佐での神と仏が習合した先進的な思想が成立しました。

仏教と銅と新羅神

宇佐での神仏習合を考えるうえで注目されるのが、7世紀の末ころに建立されていた古代寺院です。『託宣集』には、隼人征討には八幡神とともに、虚空蔵寺と法鏡寺の関係者も加わっていたことが記されています。 また、放生会では、下毛郡の古要(こひょう)社(大分県中津市)と上毛郡の古表社(福岡県吉富町)が傀儡子舞(くぐつのまい)を奉納し、さらに田川郡からは、香春岳(かわらだけ)(福岡県香春町)の銅で作った鏡が奉納されていました。8世紀の『豊前風土記』には、「むかし新羅の神が渡ってきて、この河原に住んだので鹿春郷(かわらのさと)と名づけた」ことなどが記されています。つまり、田川郡には銅を産する香春岳があったので、新羅国(しらぎのくに)の神を祀る技術集団が住んでいたことが分かります。八幡神の誕生伝説に見える、「辛(韓)国の宇豆高島」や「鍛冶翁」との関係で注目されています。

弥勒寺

宇佐宮関係の史料によると、神亀2(725)年に宇佐宮を現在の小倉山に移した際、東方の日足の地に弥勒禅院を建立しています。そして、天平9(737)年には宇佐宮社殿の西に移し、天平10(738)年に金堂・講堂を建立しました。この事業には聖武天皇の大きな援助がありました。初代の別当(長官)には虚空蔵寺の法蓮がなったとも伝えています。以後、弥勒寺は宇佐宮とともに、神仏習合の輝かしい歴史を続けることになります。

神宮寺・弥勒寺跡

現在の神宮庁や参集殿などがある正参道の西側は、弥勒寺の境内でした。呉橋を渡った西参道の南側には、寺跡の遺構が保存されています。発掘調査によって、金堂の前面に東塔と西塔を並べた、奈良の薬師寺と同じ伽藍配置であることが確認されています。出土する瓦(かわら)の文様は、宇佐の伝統的なもの以外に、大宰府系のものもあり、国の援助で造営されたことを示しています。

その他の伝承

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