山北今帰仁城監守来歴碑記(さんほくなきじんじょうかんしゅらいれきひき)は乾隆14年(1749年)8月に今帰仁城内に立てられた碑文。撰文は尚宣謨・今帰仁王子朝忠(のち改名し今帰仁王子朝義、揮毫は毛維基・城田親雲上天祐による。2002年に県指定有形文化財に指定された。 撰文をした尚宣謨・今帰仁王子朝忠は、代々北山監守をつとめた尚韶威・今帰仁王子朝典を元祖とする向氏具志川御殿の十世で、この具志川御殿は同家七世である向従憲・今帰仁按司朝幸のときの監守職廃止(康熙4年(1665年))にともない、今帰仁から首里へと居を移していた。しかし居を移したとあっても、今帰仁城の管理は引き続き同家が行っていた。 ところが乾隆7年(1742年)にこの城域を地域の住民の管理に委ねようという動きがでてきた。そこで尚宣謨・今帰仁王子朝忠は往事の経緯を上申し、同家は以後も今帰仁城の管理を任されることになった。この来歴を記した碑である。 現在、石碑は保存のため城外(隣接する今帰仁村歴史文化センター)に置かれている。

Property Value
dbo:abstract
  • 山北今帰仁城監守来歴碑記(さんほくなきじんじょうかんしゅらいれきひき)は乾隆14年(1749年)8月に今帰仁城内に立てられた碑文。撰文は尚宣謨・今帰仁王子朝忠(のち改名し今帰仁王子朝義、揮毫は毛維基・城田親雲上天祐による。2002年に県指定有形文化財に指定された。 撰文をした尚宣謨・今帰仁王子朝忠は、代々北山監守をつとめた尚韶威・今帰仁王子朝典を元祖とする向氏具志川御殿の十世で、この具志川御殿は同家七世である向従憲・今帰仁按司朝幸のときの監守職廃止(康熙4年(1665年))にともない、今帰仁から首里へと居を移していた。しかし居を移したとあっても、今帰仁城の管理は引き続き同家が行っていた。 ところが乾隆7年(1742年)にこの城域を地域の住民の管理に委ねようという動きがでてきた。そこで尚宣謨・今帰仁王子朝忠は往事の経緯を上申し、同家は以後も今帰仁城の管理を任されることになった。この来歴を記した碑である。 現在、石碑は保存のため城外(隣接する今帰仁村歴史文化センター)に置かれている。 (ja)
  • 山北今帰仁城監守来歴碑記(さんほくなきじんじょうかんしゅらいれきひき)は乾隆14年(1749年)8月に今帰仁城内に立てられた碑文。撰文は尚宣謨・今帰仁王子朝忠(のち改名し今帰仁王子朝義、揮毫は毛維基・城田親雲上天祐による。2002年に県指定有形文化財に指定された。 撰文をした尚宣謨・今帰仁王子朝忠は、代々北山監守をつとめた尚韶威・今帰仁王子朝典を元祖とする向氏具志川御殿の十世で、この具志川御殿は同家七世である向従憲・今帰仁按司朝幸のときの監守職廃止(康熙4年(1665年))にともない、今帰仁から首里へと居を移していた。しかし居を移したとあっても、今帰仁城の管理は引き続き同家が行っていた。 ところが乾隆7年(1742年)にこの城域を地域の住民の管理に委ねようという動きがでてきた。そこで尚宣謨・今帰仁王子朝忠は往事の経緯を上申し、同家は以後も今帰仁城の管理を任されることになった。この来歴を記した碑である。 現在、石碑は保存のため城外(隣接する今帰仁村歴史文化センター)に置かれている。 (ja)
dbo:thumbnail
dbo:wikiPageID
  • 348258 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 1374 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 86127565 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-ja:date
  • 0001-01-19 (xsd:gMonthDay)
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
prop-ja:ソートキー
  • 沖縄さんほくなきしんしようかんしゆらいれきひき (ja)
  • 沖縄さんほくなきしんしようかんしゆらいれきひき (ja)
dct:subject
rdfs:comment
  • 山北今帰仁城監守来歴碑記(さんほくなきじんじょうかんしゅらいれきひき)は乾隆14年(1749年)8月に今帰仁城内に立てられた碑文。撰文は尚宣謨・今帰仁王子朝忠(のち改名し今帰仁王子朝義、揮毫は毛維基・城田親雲上天祐による。2002年に県指定有形文化財に指定された。 撰文をした尚宣謨・今帰仁王子朝忠は、代々北山監守をつとめた尚韶威・今帰仁王子朝典を元祖とする向氏具志川御殿の十世で、この具志川御殿は同家七世である向従憲・今帰仁按司朝幸のときの監守職廃止(康熙4年(1665年))にともない、今帰仁から首里へと居を移していた。しかし居を移したとあっても、今帰仁城の管理は引き続き同家が行っていた。 ところが乾隆7年(1742年)にこの城域を地域の住民の管理に委ねようという動きがでてきた。そこで尚宣謨・今帰仁王子朝忠は往事の経緯を上申し、同家は以後も今帰仁城の管理を任されることになった。この来歴を記した碑である。 現在、石碑は保存のため城外(隣接する今帰仁村歴史文化センター)に置かれている。 (ja)
  • 山北今帰仁城監守来歴碑記(さんほくなきじんじょうかんしゅらいれきひき)は乾隆14年(1749年)8月に今帰仁城内に立てられた碑文。撰文は尚宣謨・今帰仁王子朝忠(のち改名し今帰仁王子朝義、揮毫は毛維基・城田親雲上天祐による。2002年に県指定有形文化財に指定された。 撰文をした尚宣謨・今帰仁王子朝忠は、代々北山監守をつとめた尚韶威・今帰仁王子朝典を元祖とする向氏具志川御殿の十世で、この具志川御殿は同家七世である向従憲・今帰仁按司朝幸のときの監守職廃止(康熙4年(1665年))にともない、今帰仁から首里へと居を移していた。しかし居を移したとあっても、今帰仁城の管理は引き続き同家が行っていた。 ところが乾隆7年(1742年)にこの城域を地域の住民の管理に委ねようという動きがでてきた。そこで尚宣謨・今帰仁王子朝忠は往事の経緯を上申し、同家は以後も今帰仁城の管理を任されることになった。この来歴を記した碑である。 現在、石碑は保存のため城外(隣接する今帰仁村歴史文化センター)に置かれている。 (ja)
rdfs:label
  • 山北今帰仁城監守来歴碑記 (ja)
  • 山北今帰仁城監守来歴碑記 (ja)
prov:wasDerivedFrom
foaf:depiction
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of
pFad - Phonifier reborn

Pfad - The Proxy pFad of © 2024 Garber Painting. All rights reserved.

Note: This service is not intended for secure transactions such as banking, social media, email, or purchasing. Use at your own risk. We assume no liability whatsoever for broken pages.


Alternative Proxies:

Alternative Proxy

pFad Proxy

pFad v3 Proxy

pFad v4 Proxy