「下関球場」の版間の差分
99行目: | 99行目: | ||
*1990年7月1日の大洋対阪神13回戦では、開幕後(4月)にトレードで移籍し数日前に一軍登録されたばかりの[[二村忠美]]が代打で出場したが、掲示板に掲げるネームプレートが二村のものだけ用意されておらず、急遽チョークで手書きされたものが掲げられた(2006年まで電光掲示板ではなかった)。 |
*1990年7月1日の大洋対阪神13回戦では、開幕後(4月)にトレードで移籍し数日前に一軍登録されたばかりの[[二村忠美]]が代打で出場したが、掲示板に掲げるネームプレートが二村のものだけ用意されておらず、急遽チョークで手書きされたものが掲げられた(2006年まで電光掲示板ではなかった)。 |
||
*1996年9月8日の横浜対ヤクルト23回戦では、同点で迎えた9回裏に、一死から谷繁が三塁打を放ち代走に[[高橋眞裕]]が送られ、さらに四球で一三塁となり、続くこの日タイムリーを放っている[[宮川一彦]]が、フラフラとレフト前にポテンヒットを放った。しかし三塁走者高橋は完全に三塁に着塁しており、ボールが落ちて安打になるのを見て慌てて走り始めたため本塁でアウトとなり、幻のサヨナラヒットとなった。さらに一塁走者[[井上純]]も三塁でアウトとなり、一打サヨナラのチャンスが拙攻により一瞬にしてチェンジとなった。試合は延長14回に[[宮本慎也]]が決勝タイムリーを放ちヤクルトが勝ち越し。横浜はその裏に投手の[[河原隆一]]がそのままこの日2打席目の打席に立ち(横浜は野手を使いきっていたため、河原に代打を送ることができなかった)、ヤクルトの守護神・[[高津臣吾]]から12球粘ったものの、力尽きて三振に倒れ最後の打者となった。高津はこの日5回2/3を投げぬいた(河原は2回2/3)。白熱した内容となったこの試合は、中断を含まないものでは日本最長となる6時間19分を記録した(16時PBで試合終了が22時過ぎ)。尚、仮に河原が繋いでいた場合、次の打者は宮川であった。 |
*1996年9月8日の横浜対ヤクルト23回戦では、同点で迎えた9回裏に、一死から谷繁が三塁打を放ち代走に[[高橋眞裕]]が送られ、さらに四球で一三塁となり、続くこの日タイムリーを放っている[[宮川一彦]]が、フラフラとレフト前にポテンヒットを放った。しかし三塁走者高橋は完全に三塁に着塁しており、ボールが落ちて安打になるのを見て慌てて走り始めたため本塁でアウトとなり、幻のサヨナラヒットとなった。さらに一塁走者[[井上純]]も三塁でアウトとなり、一打サヨナラのチャンスが拙攻により一瞬にしてチェンジとなった。試合は延長14回に[[宮本慎也]]が決勝タイムリーを放ちヤクルトが勝ち越し。横浜はその裏に投手の[[河原隆一]]がそのままこの日2打席目の打席に立ち(横浜は野手を使いきっていたため、河原に代打を送ることができなかった)、ヤクルトの守護神・[[高津臣吾]]から12球粘ったものの、力尽きて三振に倒れ最後の打者となった。高津はこの日5回2/3を投げぬいた(河原は2回2/3)。白熱した内容となったこの試合は、中断を含まないものでは日本最長となる6時間19分を記録した(16時PBで試合終了が22時過ぎ)。尚、仮に河原が繋いでいた場合、次の打者は宮川であった。 |
||
*1998年5月10日の横浜対[[広島東洋カープ]]8回戦では、3-4の広島 |
*1998年5月10日の横浜対[[広島東洋カープ]]8回戦では、3-4の広島1点リードで迎えた7回裏、広島は当時リリーフエースの[[小林幹英]]が登板。しかし小林は先頭の一番[[石井琢朗]]、二番[[進藤達哉]]、三番[[鈴木尚典]]に3連続四球を与えて満塁としてしまう。ここでバッターは、ケガと不振で喘いでいた[[ローズ]]に代わって、この日横浜移籍後初のスタメン四番に座った[[駒田徳広]]。駒田はカウント3-1から2号逆転満塁本塁打を放ち、試合は7-4で横浜が勝利した。なお駒田はこの年の1号も満塁本塁打だった。駒田の満塁本塁打はこれが現役通算12本目で史上2位タイ(当時)となった。駒田は試合後のヒーローインタビューで水を向けられると「満塁以外でも打たなきゃね」と苦笑し、場内の笑いを誘った。後に駒田は、フジテレビ系列で2015年6月10日に放送された『村上信五とスポーツの神様たち』の中で、この下関球場での満塁本塁打のことを、「全てが自分の読み通りに運んだ、人生最高の満塁ホームラン」と述べている。 |
||
*2006年9月7日の横浜対広島18回戦では珍事が続発した。初回表、先頭の[[梵英心]]が右翼ポール際へ本塁打性の打球を打ち上げ、そのままスタンドに消えた。当初は「本塁打」と判定されたが、その後確認したところ右翼スタンドの観客がフェンス手前にグラブを差し出して捕球していたことが分かり、エンタイトル二塁打となった。試合は5-5のまま延長に入り、10回には[[マーク・クルーン]]が登板。時速159kmを記録してスタンドを沸かせたが、直後に左臀部に違和感を訴えて途中降板。極め付きはその裏の横浜の攻撃で、二死満塁から[[佐伯貴弘]]がスイングしたバットに[[石原慶幸]][[捕手]]のミットが当たり、押し出し[[打撃妨害]]により横浜が6x-5で[[サヨナラゲーム|サヨナラ]]勝ち。珍事に始まり珍事に終わった一戦となった。 |
*2006年9月7日の横浜対広島18回戦では珍事が続発した。初回表、先頭の[[梵英心]]が右翼ポール際へ本塁打性の打球を打ち上げ、そのままスタンドに消えた。当初は「本塁打」と判定されたが、その後確認したところ右翼スタンドの観客がフェンス手前にグラブを差し出して捕球していたことが分かり、エンタイトル二塁打となった。試合は5-5のまま延長に入り、10回には[[マーク・クルーン]]が登板。時速159kmを記録してスタンドを沸かせたが、直後に左臀部に違和感を訴えて途中降板。極め付きはその裏の横浜の攻撃で、二死満塁から[[佐伯貴弘]]がスイングしたバットに[[石原慶幸]][[捕手]]のミットが当たり、押し出し[[打撃妨害]]により横浜が6x-5で[[サヨナラゲーム|サヨナラ]]勝ち。珍事に始まり珍事に終わった一戦となった。 |
||
*2019年3月10日に、広島東洋カープとの[[オープン戦]]を、ベイスターズ球団発足70年記念試合として、1950年の同日に行われた大洋ホエールズ初戦(上述)のユニフォームを復刻した試合を行う予定だったが、試合開始前の降雨により中止された。なおこの復刻ユニフォームは3月21日に[[横浜スタジアム]]での[[北海道日本ハムファイターズ]]戦で改めて披露された。 |
*2019年3月10日に、広島東洋カープとの[[オープン戦]]を、ベイスターズ球団発足70年記念試合として、1950年の同日に行われた大洋ホエールズ初戦(上述)のユニフォームを復刻した試合を行う予定だったが、試合開始前の降雨により中止された。なおこの復刻ユニフォームは3月21日に[[横浜スタジアム]]での[[北海道日本ハムファイターズ]]戦で改めて披露された。 |
2021年6月13日 (日) 11:44時点における版
下関球場(しものせききゅうじょう)は、山口県下関市安岡の下関北運動公園内にある野球場。施設は下関市が所有し、下関市公営施設管理公社が指定管理者として運営管理を行っている。東隣に山口県立下関武道館がある。
下関市に本社を置く不動産会社のエストラストが命名権を取得し、「オーヴィジョンスタジアム下関」の名称を用いている。
なお、本項では現存する球場の他、かつて市内中心部の向洋町にあった下関市営球場(しものせきしえいきゅうじょう)についても記す。
旧球場
下関市営球場 | |
---|---|
1974年当時の下関市向洋町(東駅地区)上空。写真左側が旧下関市営球場、その右斜め上が下関市立体育館、その更に上が山口県立下関南高等学校、中央は下関市営下関陸上競技場、少し離れて右は下関市立日新中学校(上)、その下は下関市立文関小学校。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成 | |
施設データ | |
所在地 | 山口県下関市向洋町1-13 |
開場 | 1949年11月 |
閉場 | 1985年 |
取り壊し | 1985年 |
所有者 | 下関市(1950年以降) |
管理・運用者 | 下関市(1950年以降) |
収容人員 | |
グラウンドデータ | |
球場規模 | 両翼88.4m、中堅115.9m[1] |
1949年(昭和24年)11月、下関に本社を置いていた大洋漁業(現・マルハニチロ)が母体となり、下関を本拠地とするプロ野球球団「まるは球団」を設立。その本拠地球場とするべく、下関市向洋町の大畠練兵場跡地(現・下関運動公園)に「(初代)下関球場」が建設された。総工費2500万円のうち2000万円は市民の出資によりまかなわれ、球場の運営も出資者による組合により行われた[2]が、この試みは早々に頓挫し、運営が市に移管され「下関市営球場」として運営された。
まるは球団は1950年に「大洋ホエールズ」に改名され、セントラル・リーグ(セ・リーグ)に加盟し、セ・リーグの開幕戦を当球場で実施(後述)。セ・リーグにフランチャイズ制が導入された1952年には当球場を本拠地として使用した[2]。しかし下関での開催は主催60試合中18試合にとどまり、しかも8試合は観衆1000人以下であったという[2]。大洋は翌1953年に松竹ロビンスと合併し「大洋松竹ロビンス」(洋松ロビンス)となり、大阪球場とのダブルフランチャイズとなったが、下関での主催試合は1954年までの2年間でわずかに5試合にとどまり、興行面からほとんどが大阪球場での開催となった。松竹が経営撤退し、再び大洋となった1955年に本拠地を川崎球場に移転してからも下関では大洋主催のオープン戦や公式戦がしばしば開催されてきたが、老朽化など設備に不備が目立つようになるなどしたため、1975年を最後に公式戦は開催されなくなっていった。
この旧下関球場は老朽化のため1985年(昭和60年)をもって廃止となり解体。跡地は当時移転新築工事が進められていた下関市立中央病院(現・下関市立市民病院)の建設用地に充てられ、1988年(昭和63年)に新病院が開院した。
旧球場時代の主なエピソード
- 1950年3月10日に行われたセ・リーグ初年度の開幕戦は、平和台野球場と下関球場で4球団ずつによる変則ダブルヘッダーとなった。開幕日には下関に大洋ホエールズの他、国鉄スワローズ、中日ドラゴンズ、阪神タイガースが集結。開幕カードとなる大洋対国鉄の一戦は大洋の今西錬太郎が2-0の完封勝利を挙げ [2]、第2戦の中日対阪神も中日の清水秀雄が阪神に二塁を踏ませぬ快投を見せ5-0の完封勝利を挙げた[3]。翌3月11日に行われた松竹対中日戦では、松竹の岩本義行が4回裏に1号満塁本塁打を放ち、この一打はセ・リーグ第1号本塁打となった(前日の10日には2球場とも本塁打なし)[2]。ちなみに同日に岩本より早く西宮球場でパ・リーグ第1号本塁打を放った毎日オリオンズの戸倉勝城は下関市の出身で、大洋ホエールズの前身の大洋漁業野球部の出身である。
- 1960年6月29日に行われた大洋対巨人戦のダブルヘッダーは2試合とも延長12回までもつれ込む熱戦となり、第1試合は巨人森昌彦の送りバント処理ミスで、第2試合は桑田武のサヨナラホームランで大洋が連勝。前日の国鉄戦もサヨナラで勝利を収めており、セ・リーグ初の3試合連続サヨナラ勝利となった。これで勢いづいた大洋はこの年、球団創設11年目にして初のリーグ優勝、日本一を成し遂げることになる[2]。
- 旧下関市営球場では日米野球が通算7試合開催されていた。
- 1953年 MLBオールスター対全パ・リーグ
- 1955年 ニューヨーク・ヤンキース対全日本選抜
- 1956年 ブルックリン・ドジャース対全日本選抜
- 1958年 セントルイス・カージナルス対全日本選抜
- 1960年 サンフランシスコ・ジャイアンツ対全日本選抜
- 1962年 デトロイト・タイガース対大洋ホエールズ
- 1970年 サンフランシスコ・ジャイアンツ対大洋ホエールズ
現球場
下関球場 Shimonoseki Baseball Stadium | |
---|---|
2019年3月撮影 | |
施設データ | |
所在地 | 山口県下関市大字富任字小迫(下関北運動公園内) |
座標 | 北緯34度1分4.8秒 東経130度56分4.9秒 / 北緯34.018000度 東経130.934694度座標: 北緯34度1分4.8秒 東経130度56分4.9秒 / 北緯34.018000度 東経130.934694度 |
開場 | 1988年 |
所有者 | 下関市 |
管理・運用者 | 下関市公営施設管理公社(指定管理者) |
グラウンド |
内野:クレー舗装 外野:天然芝 |
照明 | 照明塔:6基 |
収容人員 | |
25,000人 | |
グラウンドデータ | |
球場規模 |
グラウンド面積:-m2 両翼:100 m 中堅:122 m |
フェンス | m |
現在の下関球場は1988年7月、市北郊で整備が進められていた下関北運動公園内に完成。同年夏の全国高等学校野球選手権山口大会がこけら落としで、以後アマチュア野球の公式戦が行われている。
プロ野球は翌1989年から開催されるようになり、かつて下関を本拠地としていた横浜大洋ホエールズが同年3月に読売ジャイアンツ(巨人)とのオープン戦、8月にヤクルトスワローズとの公式戦を主催で開催。大洋は以後、球団名が「横浜ベイスターズ」→「横浜DeNAベイスターズ」となってからもほぼ毎年オープン戦・一軍公式戦・イースタン・リーグ公式戦のいずれかの形で主催試合を行っている。ただし、一軍戦の開催は横浜以外の球団主催も含め2008年以降は実施されていない。なお、ベイスターズは下関市を「球団発祥の地」としてその歴史を尊重しており、日本一となった1960年と1998年には下関市内でも優勝パレードを実施している。このような縁から球団は下関を「準本拠地」として明確な定義こそしてはいないものの、地元には「下関はベイスターズのふるさと」「横浜の準本拠地」と崇めるファンも数多い。
下関北運動公園内には、軟式野球専用のサブグラウンドである下関第二球場(両翼91m、中堅112m、旧球場閉鎖の際に本球場建設に先立って1985年にオープンしている)の他、多目的広場やテニスコートが併設。2011年には山口県立下関武道館が完成し、下関のスポーツのメッカとして知られる。
2006年のシーズン中には、スコアボードがパネル式から電光式に改修された。
近年では、福岡ソフトバンクホークスによる野球教室やウエスタン・リーグの公式戦などが行われている。
2017年4月より3年間、下関市内に本社を置く不動産会社「エストラスト」に命名権を売却し、同社のマンションブランド「オーヴィジョン」に由来する「オーヴィジョンスタジアム下関」の名称となり、下関第二球場についても同様に「オーヴィジョンスタジアム下関第二球場」となる[4]。
現球場の主なエピソード
特にプロ野球において、開催のペースはオープン戦を含めても年1回未満と、少ないにもかかわらず、ドラマや記録、珍事等が頻発する球場である。
- 1989年3月4日に同球場初のプロ野球として大洋対巨人のオープン戦が組まれていたが、前日まで降り続いた雨の影響でグラウンドがぬかるむなどして開催が危ぶまれた。フィールドに砂と土を入れ、さらに灯油を散布して点火し水分を蒸発させるなど奮闘した結果、何とか開催可能なコンディションまで回復。無事に試合は開催された。この試合では当時大洋の新人だった谷繁元信が、巨人の斎藤雅樹からプロ入り初の本塁打を通算2打席目に放っており、谷繁は後に「下関でリーグを代表する投手の斎藤さんから本塁打を打てたおかげで、プロでやっていける自信がついた」と振り返っている。
- 1990年3月11日に行われたオープン戦・大洋対近鉄では、近鉄のルーキー・野茂英雄が登板し「初勝利」を挙げている[3]。
- 1990年7月1日の大洋対阪神13回戦では、開幕後(4月)にトレードで移籍し数日前に一軍登録されたばかりの二村忠美が代打で出場したが、掲示板に掲げるネームプレートが二村のものだけ用意されておらず、急遽チョークで手書きされたものが掲げられた(2006年まで電光掲示板ではなかった)。
- 1996年9月8日の横浜対ヤクルト23回戦では、同点で迎えた9回裏に、一死から谷繁が三塁打を放ち代走に高橋眞裕が送られ、さらに四球で一三塁となり、続くこの日タイムリーを放っている宮川一彦が、フラフラとレフト前にポテンヒットを放った。しかし三塁走者高橋は完全に三塁に着塁しており、ボールが落ちて安打になるのを見て慌てて走り始めたため本塁でアウトとなり、幻のサヨナラヒットとなった。さらに一塁走者井上純も三塁でアウトとなり、一打サヨナラのチャンスが拙攻により一瞬にしてチェンジとなった。試合は延長14回に宮本慎也が決勝タイムリーを放ちヤクルトが勝ち越し。横浜はその裏に投手の河原隆一がそのままこの日2打席目の打席に立ち(横浜は野手を使いきっていたため、河原に代打を送ることができなかった)、ヤクルトの守護神・高津臣吾から12球粘ったものの、力尽きて三振に倒れ最後の打者となった。高津はこの日5回2/3を投げぬいた(河原は2回2/3)。白熱した内容となったこの試合は、中断を含まないものでは日本最長となる6時間19分を記録した(16時PBで試合終了が22時過ぎ)。尚、仮に河原が繋いでいた場合、次の打者は宮川であった。
- 1998年5月10日の横浜対広島東洋カープ8回戦では、3-4の広島1点リードで迎えた7回裏、広島は当時リリーフエースの小林幹英が登板。しかし小林は先頭の一番石井琢朗、二番進藤達哉、三番鈴木尚典に3連続四球を与えて満塁としてしまう。ここでバッターは、ケガと不振で喘いでいたローズに代わって、この日横浜移籍後初のスタメン四番に座った駒田徳広。駒田はカウント3-1から2号逆転満塁本塁打を放ち、試合は7-4で横浜が勝利した。なお駒田はこの年の1号も満塁本塁打だった。駒田の満塁本塁打はこれが現役通算12本目で史上2位タイ(当時)となった。駒田は試合後のヒーローインタビューで水を向けられると「満塁以外でも打たなきゃね」と苦笑し、場内の笑いを誘った。後に駒田は、フジテレビ系列で2015年6月10日に放送された『村上信五とスポーツの神様たち』の中で、この下関球場での満塁本塁打のことを、「全てが自分の読み通りに運んだ、人生最高の満塁ホームラン」と述べている。
- 2006年9月7日の横浜対広島18回戦では珍事が続発した。初回表、先頭の梵英心が右翼ポール際へ本塁打性の打球を打ち上げ、そのままスタンドに消えた。当初は「本塁打」と判定されたが、その後確認したところ右翼スタンドの観客がフェンス手前にグラブを差し出して捕球していたことが分かり、エンタイトル二塁打となった。試合は5-5のまま延長に入り、10回にはマーク・クルーンが登板。時速159kmを記録してスタンドを沸かせたが、直後に左臀部に違和感を訴えて途中降板。極め付きはその裏の横浜の攻撃で、二死満塁から佐伯貴弘がスイングしたバットに石原慶幸捕手のミットが当たり、押し出し打撃妨害により横浜が6x-5でサヨナラ勝ち。珍事に始まり珍事に終わった一戦となった。
- 2019年3月10日に、広島東洋カープとのオープン戦を、ベイスターズ球団発足70年記念試合として、1950年の同日に行われた大洋ホエールズ初戦(上述)のユニフォームを復刻した試合を行う予定だったが、試合開始前の降雨により中止された。なおこの復刻ユニフォームは3月21日に横浜スタジアムでの北海道日本ハムファイターズ戦で改めて披露された。
施設概要
- 両翼:100m、中堅:122m
- 内野:土、外野:天然芝
- ナイター設備:(鉄塔)6基
- 25,000人収容(内野:椅子、外野:芝)
- スコアボード:電光式
交通
- JR新下関駅3番のりばよりサンデン交通バス「安岡駅前」「横野」「安岡経由下関駅」行で「蒲生野」バス停下車後徒歩約5分
- JR梶栗郷台地駅より徒歩17分、JR新下関駅より徒歩35分
- 新下関駅からはバスで約10分
- プロ野球1軍公式戦の開催時は新下関駅および下関駅から臨時バス運行あり。ただし、ウエスタンリーグ開催時は臨時バスの運行はない。
- 中国自動車道・下関ICより約20分
関連項目
脚注
- ^ “球場詳細 下関(旧)”. 日本野球機構公式サイト. 2019年8月19日閲覧。
- ^ a b c d e f “【球跡巡り・第15回】セ・リーグが産声を上げ ベイスターズが航海を始めた地 下関市営球場”. 日本野球機構公式サイト (2019年3月8日). 2019年8月19日閲覧。
- ^ a b “【ボクの思い出STADIUM】旧下関&豊楽園球場”. 中日スポーツ. (2016年11月2日) 2019年8月19日閲覧。
- ^ 2球場命名権売却先決定 “オーヴィジョンスタジアム”に - 読売新聞、2016年12月21日
- ^ (記者発表資料)第1回下関プロ野球招致実行委員会の開催について
- ^ ベイスターズ、雨うらめし 下関「帰郷」戦が中止 公式戦誘致へ期待(2019年3月11日 産経新聞)
- ^ 春季非公式試合(オープン戦)